人理焼却
人類史の過去・現在・未来全てを焼却するという、空前の暴挙。
すでに為されたそれを覆すために日夜戦い続けるカルデアだが、実は日夜の別はなくとも昼夜の別は存在している。
もちろん、近未来観測レンズ:シバをはじめとする諸システムの安定動作のため、カルデア全体の電力供給はもともと余裕をもって設計がされている。
したがって、24時間、照明を点して活動し続ける事自体は、さしたる負担ではない。
だがしかし、人間の身体と心というのは面白いもので、睡眠すべき時間と覚醒しているべき時間がきちんと分かれていないと、
それだけで心身にストレスが貯まっていくのだとヘルスケア担当者は語る。
そして、それはただ就寝時に自室の灯りを消すというだけで解消されるものではなく、施設全体の照度を落とし、夜になったことを身体と無意識が実感することが必要なのだと。
そのためカルデアでは特定の周期で施設全体の照明が抑えられ、購買は夕方に相当する時間を過ぎれば閉店となり、職員はローテーションで『夜勤』を担当する事になる。
したがって、カルデアにおけるAM/PMの違いは単なるデジタル時計の表示に留まらず、大雑把に昼と夜を把握する機能を有している。
つまりは、そう、前置きが長くなったが、カルデアにも草木が眠り鬼が跋扈するという丑三つ時が存在するのである。



「主様……主様……」

艶かしい吐息が耳たぶをくすぐる。
それがくすぐったくて、夢うつつのままで寝返りを打つ。
閉じた瞼の向こうで、まだ覚醒しきれない脳みそが、自分以外の誰かの、困っているような気配を感じる。

「……主様、主様、夜分遅くに申し訳ありませんが、お目覚めください」

そっと肩を揺らす柔らかな掌。
甘やかな香りが、鼻先を掠める。ほんの僅かに着物に焚き染めた香の匂い。
その匂いに触発されたのか、脳みその動物的な部分がそろそろ起きろとわめき始める。
お前寝床に他人が忍び込んでるんだぞ、危機感覚えろこのウスノロと騒ぎ立てる。
理性担当の部位はその判断を支持。
危険が迫っているかはともかく、まだ夜に相当するこの時間に、何者かが訪れるのは明らかに異常事態だと冷静に指摘する。
ああ、だが、しかし。
しかし、もっと原始的ないわばバクテリアとか細菌の類のような単細胞生物に相当する深い本能に根ざした部位は
眠い起きたくない掌の感触が心地よいこの声の主が自分に酷い事をするはずがないという揺ぎ無い確信のもと、睡眠続行を選択。
すぴょすぴょ間抜けな寝息が鼻を通り抜け、圧倒的眠気の波に理性と動物的本能が押し流される。

ため息。

顔に押し付けられる柔らかな感触。鼻腔を満たす甘い香り。
囁く声が、先ほどよりも近くから、脳髄を直接くすぐるように響く。

「主様、主様、お目覚めください……でないと」

でないと?

「た べ て し ま い ま す よ」


→「起きます」(即答) ピッ
 「EAT ME!」


一瞬で全身が覚醒する。
脳より先に危機を察知した身体が跳ね起きた。

「あら……」

その勢いに驚いたのか、ベッドの横で膝を屈めて、横たわる主に目線の高さを合わせていた和装の槍兵は大きな目をぱちくりと瞬かせた。



「改めて、夜分遅くに申し訳ありません、主様。緊急事態だそうです。至急、管制室にお越しくださいと博士が」

槍兵のサーヴァント、かがり花は万事穏やかかつ奥ゆかしい女性で、とかく灰汁の強い人物が多いサーヴァントたちの中にあって、比較的コミュニケーションを取る相手に疲労を感じさせないという美点がある。
故にドクターはただでさえマスターのモチベーションを低下させかねない、就寝中の呼び出しの伝令役を任せたのだろう。
だが、だからといって、美貌の女性に独身男性の自室のキーを渡して起こしてこいという、その判断は決して褒められたものではない。
いくら日々の過酷な任務のあと、遅い時刻だからといっても、男として女性に決して見られたくない場面が室内で展開している可能性だってあるのだ。
しかもかがり花は、人理焼却阻止のためにカルデアで召喚されたサーヴァントの中でも古株で、女性のサーヴァントしては特にマスターと気心が通じている面がある。
そして気心が通じていればこそ、絶対に知られたくない一面、見られたくない側面というものも存在するのだ。

とはいえ、ここでかがり花に八つ当たりするほど、マスターも短慮ではない。
サーヴァントに限らず、やたら面倒な人格の持ち主が多いカルデア関係者との激流のような交流の中で成長したとも言う。


 「ママー、眠いーお着替えさせてー」
→「ごめん、分かった。着替えるから部屋の前で待っててくれるかな」ピッ


「お急ぎください」

部屋を退出する直前、珍しくかがり花がマスターを急かした。
よほどの重大事案なのかと、覚醒段階が身体に追いつかない脳が薄らぼんやりと考える。
だがそんな思考も、脊髄反射のレベルで叩き込まれた魔術礼装の着用手順の流れの中で途切れて消えた。
なんにせよ、管制室でドクターの話を聞かなければ始まらないことだけは間違いなかった。



時刻はAM2:00。
昼は煌々とした灯りに照らされる何の変哲もない廊下も、この時刻はオレンジ色の常夜灯が投げかける心もとない明かりの中、暗い川の上を渡る細い橋のように見える。
迷うことなく先導するかがり花の後姿を、わだかまる闇に脚をとられないようマスターは追い続ける。
薄明かりの中、時折、わずかに翻る裾からのぞく白いくるぶしが、それ自体ほのかに光を放つようにマスターの目を引き付ける。
日本人離れした白い肌、戦国期の日本人にはありえない淡い色のブロンド。
かがり花は自らの出自について、あまりよく覚えていないというが、安土桃山時代末期の日本人としてはその容姿はきわめて異質であり、ただならぬ事情が窺える、とはドクターの言だ。
そのことに、興味が惹かれないといえば嘘になる。
だが、かがり花は今ここにいて、心から手を貸してくれている。
それだけわかっていれば十分なのではないかと、マスターは思うのだ。

薄明かりの下を早足で歩く。
薄闇の中で走るのは、一般に思われてるよりもはるかに危険な行為だ。
闇は人の平衡感覚は容易に狂わせる。
何もない場所で激しく転倒する可能性は無視できるほどに低くはない。

「ねえ、かがり花」

前を行く背中に声をかける。

「なんでしょうか、主様」


→「ドクターは今回の緊急招集について何か言ってなかった?」 ピッ
 「今夜も綺麗だね」


「いえ、何も仰っておられませんでした」

「そう」

歩く、歩く、歩く。
カルデアの敷地は広大であり、レイシフトに必要な設備のみならず、職員の福利厚生のための施設も一通り、しかも複数擁している。
そのため、その床面積は一般的なショッピングセンターが幾つか収まるほどの広さになる。
しかも主たる移動手段は徒歩のため、ある場所から場所への移動にそれなりの時間が掛かることも決して少なくはない。


 「……」
→「でもさ、かがり花」 ピッ


「はい、主様」

「かがり花は、急ぐようにと言ったよね。
 それは、ドクターからの指示だったんじゃないかな?」

「そうですね……そうだったかもしれません」

歩く、歩く、歩く、歩き……かがり花の返事を聞いて立ち止まる。
振り返ったかがり花が、不思議そうに振り返る。

「主様?」


→「君は、誰?」 ピッ


確かにカルデアの敷地は広大である。
しかし、緊急事態の発生の可能性と、その場合の対応の遅延から生じるリスクを勘案し、マスターの自室は管制室に程近い場所に設けられている。
プライバシーに配慮し、一定の距離はとってあるとはいえ、たとえ徒歩であっても、5分以上掛かることは決してない。

「貴方のかがり花でございます。おかしな事を仰る主様」

かがり花は、いつものように穏やかな微笑をマスターに向ける。
だが、その瞳に紅い光がたゆたっているように見えるのは、決して薄闇がマスターの目を晦ませているからではない。


→「ずっと見てきたから知ってる」ピッ
 「胸がちょっと小さい」


「……?」

「かがり花は決して裾を乱したりはしないよ。
 どんなときでも、たとえ戦闘中であっても」

「……」


 「ここは何処?」
→「何処へ向かってるの?」 ピッ


「とても……とてもよいところへです、ますたー」

ぬらりと、かがり花の姿をした何者かの、声の質感が変わった。
毒を含む甘い蜜のように。
致死の毒を含むと分かっていても、あるいはだからこそ、舐めずにはいられない花の蜜のように。

「さ、お手を。失礼ながら、ここからは私が手を引いてご案内いたします」

白く細い手が闇に浮かぶ。
誘うように蠢く細くしなやかな指から目を話すことが出来ない。
この細腕が、白魚のような指が、必殺の薙刀術が繰り出すとは、実際にこの目で見ていても、いまだに信じ難い。
取り留めのないことばかり考えてしまう。
集中が乱されている。
気がつけば、濃密な甘い香りがその場を包み込んでいた。
かがり花の匂い、否、かがり花のように見える誰かの匂い
脳が痺れる。
思考が空回りする。
逃げなければ
どこに?
逃げなければ
誰から?


 (引き込まれるように、その手を取る)
→(振り切って一歩下がる) ピッ


「主様、御免!」

直後、視界のギリギリ下限から身体の真横を白銀の一閃が縦に跳ね上がった。
その瞬間、脳髄を覆う霞が刃の煌きで吹き飛ばされたかのように、思考が鮮明になる。
絡みつく糸が千切れたように、急に自由を取り戻した身体に活を入れて、よろよろと後退り、かがり花のような何者かから距離をとる。
全身から汗が噴出し、思わずその場にへたり込んだ。
薄闇を切り裂き、マスターを守るように、影が前に立つ。
日本人離れした白い肌、戦国期の日本人にはありえない淡いブロンド。
その手には白い細腕に不釣合いな一振りの薙刀。
和装の槍兵。

「ご無事ですか、主様!?」

見上げたマスターの視線の先、そこにはもう一人のかがり花がいた。

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